顔面神経麻痺
 
顔面神経麻痺を考える23
 やっつけに行く
  今回は鬼軍曹の独り言ですかね〜っ。
  
    こんた治療院

 今回のお話は、私が治療室で皆さんにお話ししているネタを少しだけ、web上でも書いてみたいと思います。顔面神経麻痺の治療と一口に言っても、ただ麻痺した神経を回復させるだけでは本当に治療しているとは言いがたいものがあります。これは総ての慢性の疾患にもいえる事ですが…。
 病気を治す事は、その病気の本質を見抜く事こそが、大事であるという事なのですが、その本質の中に心の不安というものが、顔面神経麻痺の場合はその割合として大きくあると私は思っています。そして、その不安を取り除く為に、医療従事者は努力を惜しみなく使う事は当然の事ではありますが、病気についての説明の不足や、経過観察過程の説明不足、患者からの質問に対する解答の曖昧さ、さらには生活指南の指導については不適当であると思われる事も多く耳にします。その為か、Dr.ショッピングといわれるほど病院を変えたりする人が多いのもこの疾患の特徴でもあります。私の願いとしては、こうした患者さんの負担にならぬ様に少しでも治療環境が良くなる日が来る事を毎日考えています。そして、私なりに顔面神経麻痺をやっつけに行く事を毎日考えて臨床に臨んでいます。

顔のリハビリは、いけない。更に…。

 この事は過去のコンテンツ<顔面神経麻痺を考える8 顔面体操や顔の運動について>で詳しく説明しているので、割愛させていただきますが、意外と顔の運動を推奨する医療従事者に限って更に問題のあるアドバイスをしている事があります。それは鏡を使って顔の運動を推奨している事です。
 ではなぜ?鏡を使う事が問題になるのかというお話をしてみたいと思います。鏡というものは人の顔を映し出す道具です。その鏡は良いも悪いも今の自分をありのままに映し出しています。
 人というものは、自分の顔を自分ではっきり覚えていないものでありながらも、いやそんなことは無い自分の顔は自分が良く知っているものだと思っているのです。本当に自分の顔は自分が良く知っているのでしょうか?。例えば、証明写真を何度か取り直した経験がある人、または自分の運転免許やパスポートの写真が気に入らないと考えている人も多いと思いますが、その気に入らないギャップのおおよそが自分の考えている自分の顔でないと判断したからです。しかし、他人からするとその写真に写っているのは、まぎれもなく本人であり別におかしい写真になっていないのです。これは、自分の顔が大体この様な顔でいるという基準を持ち合せており、その基準から生まれてくるギャップによって気に入らない度合いが強まるのです。
 そんなことは無いと考える人に、1つ質問をします。何十年とつきあっている自分の顔を絵に描く事はができますか?例えへたであっても、そんなに強く私の意見に反対するなら、今ついているホクロくらいは鏡を見ずに描けるはずと思いますけど。という意地悪なお話を申し訳ございませんでした。
 さて、この様なお話を前置きにしまして、鏡という道具を知る前に、まず人間というものをおさらいしてみました。そして、そんな人間が使う鏡は、正に顔面神経麻痺になった患者が覗き込むには辛いものがあります。何が辛いのかは前記した通りそのギャップがまず最初に自分の目に飛び込んでくるからなのです。鏡を見てリハビリを行うという事は、鏡を見る度に、まず始めに自分の心へ大きく打撃を与える事から始まるという事なのです。特に自分個人で行う時には、こうした影響が強く出る事は避けられません。こうした事を1日何度も繰り返すうちに、気持ちも変化して不安と落胆を深く、深くしてゆくのです。
 鏡という道具は、その利便性も認識しながらも、実は自分を映し出す目的に応じては、非常に問題がある道具であるというお話で、自分の顔を毎回見て反省会をしている事にもなっており、その影響は精神的分野にも大きく影響を与えてくるという事です。こうした事の繰り返しをして、毎日反省会をしていると自分の気がつかないうちに気持ちが閉鎖的に変わっていってしまいます。この様な時には、他人から見て充分解るくらいにその行動にも現れます。それに気づいたならば、鏡を見ての反省会を止める事です。この時に良い薬となるのが、今日までよくがんばった自分を褒めてあげる事はしてあげたのか?褒めてあげる事をしていないのなら、まずその事をするべきです。簡単な事です。そして、それが良い薬になるのです。
 心にムチ打つ事を、知らない間に自分でしてしまっては、自分の気持ちが前を向こうとしないのは当然の事です。みんなの傷ついた神経組織は、今できる事を一生懸命やって何とか頑張っているのだから、自分に優しくしてあげる事を私は切に望んでいます。その思いを何とか文章で表現する事は、文筆家でない私には難しいのですが、臨床現場では鬼軍曹として皆と共にぼちぼちと顔面神経麻痺をやっつけに行っています。その歩みはきっと外から見れば、『おそっー(遅い)!』と言われてしまうかもしれませんが、もともとは前を見る事ができなかったのですから、私たちは胸を張ってやっています。それで満足です。それがいいのです。
  こんなつまらない話は、インターネット情報では必要ない?いや私はとても重要な事、大切な事、私がとても大事にしている事ですから、私の事は放っておいて下さいねー。(笑)

 病は気からって言うけど…。

 昔の人から病は気からという言葉を聞かされると、やっぱり昔の人もメンタル的に苦労を重ねていたんだと思います。されど今の世の中もその基本は変わっていないと感じます。今でも人は同じ事を感じ、悩むものと思います。そして病と戦っています。
  人は情報が多ければ安心できると考えますが、その反面も同じ割合で不安も多くなるので、人に与える安心と不安の比率は50対50であると考えます。この事は私のコンテンツとて同じ事と13年前に心得てweb配信を始めましたが、今でも変わらずの意見です。しかしながら、その中から生まれてくるもののすばらしさを幾度も体験できた事は、とても大切な私の宝物であると思います。それは、小さな治療室にいながら遠くから、皆さんが私を尋ねてくるその思いです。それと、こうしてホームページの閲覧をしていただける事は、私の宝物であると思っています。そうした事を重ねてゆくうちに、こうした文章を書く事、みなさんと対話をする事は、その病は気からという言葉に対して、現代の私たちの答えとして、その病に落ちた気を治す方法としてインターネットを使う事は一躍を担う事に繋がると思う事は、私の一方的なエゴではないと感じています。その気を治す方法として私のコンテンツが1%でもお役に立てる事が何より、私のweb配信の本望なのです。昔の人に伝えてあげたいです。今はこうした方法でがんばってますからとね。

 まずは…、心の笑いとは?

 心の笑いってなんでしょうねーっ。
 自分でテーマで書いていても上手に説明できない。そう!これこそが自分に取戻したくとも取戻せないものであり、文章が作った創作で架空の表現であると私は考えます。この他にも、強い人間、弱い人間などと文章には書かれる事が多いですが、実際に私はそうした人に出会った事がない。あなたは会った事がありますか?。なのに何かに悩んでいるといつもこうした言葉の押し売り攻撃にあってしまう。他人から見て自分が心が病んでいると見ると、その人を励まそうとする言葉が心の喜怒哀楽を表現した言葉や人としての在り方を表記した言葉を投げかける攻撃にあってしまう経験はありませんか?。
 そうされる事で立ち直るレベルであるならば、それもまた良しです。映画やドラマでは定番の めでたし、めでたしコースです。でもその攻撃に耐えてしまうほどディープなものは反って、その言葉にムカつく感覚を覚えてしまいます。偉そうな事言って何も解っていない。そう 自分が悩んでいる事なんて、自分以外誰も解る事なんてできないのは当然ですよ。でもきっと無意識に自分から手を差し伸べているからこそ、その他人が手を差し出してくれたんだと気付いて下さい。そして、気持ちが落ち着いたらその他人に感謝する事です。しかし、なんでこう人間は心穏やかでない日々を毎日過ごしているのでしょうね。
 私たちは、心はいつでもクールに身の回りに起きた出来事によって揺さぶられる感情を安定させよう、落着かせようとしているのだから、浮かれっぱなしも無ければ、沈みぱなしもないはず。ではなぜ?心が沈みっぱなしになるのでしょう?

 1つは、悩んでいる問題に対して、総体的に自分では解決できないものとして判断しているため、解決できるまでの時間が必要であり、その時間の過ごし方そのものが今の自分の気持ちの方向性と同調している可能性が大いにある。具体的にいえば、解決できない問題を抱えながらも忙しく生活しているのではなく、解決できない問題をじっくり考える時間を持っているという事です。この時間の過ごし方が実に、人にとってキーポイントとなってゆくのです。特に悩んでいる問題が発生している事とは違う環境での時間の過ごし方は、悩みを考える時間を与えないで、忙しさにその時間をかき消される可能性、チャンスが多いのです。しかし、人というものは1日数分程度しか考えていないものでも、内容によっては1日中考えていた様に感じてしまう事も多いにあります。ですから、そうした忙しい時間を続ける事で経験値を上げてゆきながらぼちぼちとやってゆく事が大切です。

 2つめは、自分の元気のハードル設定値を、問題が発生する前より遥かに高く設定している可能性が多くの人にあるという事。問題が発生する前の自分は、理想的なハードルをいつも乗り越えていたのかを考えるのです。恐らくそんなに高いハードルを跳んでいないと思うのは私だけでしょうか?いい加減なハードル、もともとそんなハードルすら考えた事無い。ならば尚更の事そうした目標やハードルを作る事さえ止めてしまうのが、自分にとって、とても良い環境を作る事になるのです。
  中高年の方には、自分の行いを振り返って、あの時にこうしたからいけなかった…かもしれない。と病気に対して自らの行いを反省し、それををあてはめてお話をする人が多いのですが、そもそも病気と行いの直接の因果関係が無い事ならば、無理に因果関係を押し付ける事はしないほうがよいといつも感じます。しかしながら、病気に対して、こうして自らの行いを反省する考えの方向性は結果、現在自らのハードルをあげてしまっている事と同じである事に気がつきます。結果的に、『だから、まじめになろう』と考えて悩むという事です。いい加減な自分が良い加減であることを思い出す事は難しくはないですよね。

 3つめは、答えのでない計算機、4桁しか計算できない計算機で5桁、6桁の答えを出すには無理があるというお話。これ、つまり自分が考えて使っている心の計算機の容量の事です。病気に対してお話しするなら、初めて自分の心と向き合うほどのショックを受けた時に、その答えとなるものを導き出すために、人は自分の心に答えを計算させます。しかし、その計算が上手に行えないとイライラも増大し、何を計算するのかさえ忘れてしまいます。今までに解いた事の無い問題に対して、すぐその場で答えを出そうとして、気持ちばかりが焦り、自分が出せる答えの桁数や容量をオーバーしている事に気がつかないで、まだ答えを出そうとしているのです。これではいつまでたっても答えは出て来ません。
  その対策方法としては、計算機の桁数を増やしてゆくという方法です。その為には、桁数を増やす時間を惜しんではいけないという事、一見回り道をしている様ですが、桁数が足りないのですから増やす事は時間の無駄ではありません。そして、今やっている計算方法とは違った計算方法を学びに、一旦今起きている問題を保留にして、新しい計算方法を習得する事に専念する事が何より役に立つと思います。
 もっと具体的にいえば、病気になって部屋の中に引き込んでいる状態では、その計算機の容量を増やす為にはいささかチャンスが少なすぎるし、時間も相当必要になる事が誰にでも想像がつきます。しかし、お庭に出る位の事でも初めは充分ですし、そのチャンスは充分巡って来ます。そうしながら経験値を獲得して、もっと外へ出て増やしてゆく事ができます。自分の頭の中の計算機の容量を増やし、新しい計算式を学ぶ為に、そのチャンスを獲得する為に、少しづつ経験値を増やしながら外へ外へと出てゆく事が自分のためになると考えます。さらにお話をすると、その計算機の容量と年齢は、実は全く関係が無い事をお話しいたします。今、生まれて初めて起こった難問題に対しては、その時から心の計算機の容量を増やさなくては容易く解決できません。病気に関しても同じく、50歳だからこの様な問題は解決できるだろうという事はありません。病気になって不安や悩みを抱える事は全員が経験する事ですから、その心の計算機の容量を増やす作業は皆、その時が始まりなのです。そして、それは恥ずかしい事でもなんでもないのですから。ぼちぼちとやってゆくのです。

 このお話の最後に、もしあなたがこの様に悩みを抱えて引きこもり、精神的な不安が強調された状態でいたとしたら、一番あなたを心配している人も、あなたと同じ心の計算機の容量を増やす事が必要になってきます。それはなぜか?それはあなたをどうやって元のあなたにしてあげられるのかを考えるからです。難題でしょう?でも、そういう人ならば、あなたも心から一緒に心の計算機の容量を増やすチャレンジができるのです。その人と一緒にチャレンジしてはいかがでしょうか。

 人は『怖い』というものを持たされて産まれてこない。

 よく治療室で様々なお話をしますが、人間は恐怖というものを持たされて産まれてこないというお話を時々します。他の動物は、産まれてくる時に自分の身を守る為の最低の装備を持ってこの世に出て来ます。しかし、人間はというと自分の身を守る為には最低4〜5年はかかってしまいます。ある実験の事を書いてみますが、その実験とは産まれて間もない鶏のひなを使った実験です。その雛を5、6羽、使い、小島の様にした2つの段ボールの一方に雛群を置きます。そしてもう一方の段ボールには、エサを置きます。実験を開始しますが、雛たちはエサに気がつきますが、そちらの段ボールへは渡る事ができずにいます。そこで、今度はその段ボールに透明なアクリル板を置いて雛たちを渡り易くします。しかし、一向に雛たちは透明なアクリル板を渡ろうとはしません。そこで、アクリル板に黒いビニールテープで、あたかも道がある様に線を引いてみました。すると雛たちはその黒い線の上を歩きながら、エサのある段ボールへ次々と渡り始めました。では、人間の赤ちゃんはこの様な事ができるのでしょうか?無理ですね。人間は雛にできる事は総て、産まれた後に経験に学び、身につけてゆくものなのですから無理も仕方ないのです。
  その無防備な自分たちの過去、つまり赤ちゃんとして産まれた私たち総ては、怖いというものを学ぶべき立場から理解して行くという存在である事を1つ押さえておきましょう。ゆえにその学ぶという立場は、人間が考えるという機能あってこそできるもので、考えるという力は、相当なパワーを持っている事を私たちは知っています。しかしながら、生活における『怖い』の克服は、したくはない事、起こってはならない事、としながらも実は自ら『怖い』を探しているのは、人間の生きて行く力に必要なものだと私は考えます。防災活動や交通安全などは、起こりうる事を想定して『怖い』を克服する事前の準備であり、生きて行く為の危険回避能力を高める為の行動ですね。
 お話をもう1ついたしましょう。『怖い』についてですから、お化けを題材に使ってみましょう。さて、このお化けについてですが 、いやはや世界中にこのてのたぐいのもの(お化けや悪魔など)が存在しますね。自分も小さな時にはこのお化けが恐くて、夜が怖くていたことを記憶にありませんか?でも、お化けなんか見た事もないのに、何で恐がるのだろうと考えた事はありませんか?幼稚園入学前の子でも、何となくお化けを認識して恐がる事を見た事はありませんか?
 人間は脳が発達すると共に、基本的に感情というものが開花(自我の芽生え)していき、それに伴って自身への善悪のセレクションともいうべきものも行ってゆきます。赤ちゃんが夜泣きを始める頃(脳細胞が増えて情報の整理を始めると考えています)が、その『怖い』を考え始めた第一歩であると私は考えています。また、その後、人見知りを覚える時期でもあります。
 やがて、その子が一番初めに認識した自分にとって必要な人の数より、もっと人を増やそうとしてくるとまずはその子が克服しなければならない事があります。 その克服しなければならない事とは、一旦は拒絶したものへの理解です。具体的には人見知りをした人達との再アプローチというわけですね。もちろんそこに『恐い』という言葉と明確な感情は赤ちゃんには無いのですが、赤ちゃん本人が自然に他人との交流ができる環境が存在する事が必要になって来ます。赤ちゃんが外へ出て外界の環境をその目で見て、体験させる事が環境という事です。その後に、会話をする事で人との結びつきというものを、極自然な形としてできるようになり、そうして私たちは他人との関わりを持つ事が徐々にできるようになるのです。
 しかしながら人間は、『恐い』というものを様々な形に変えてゆけるのものですね。時にお化けにしてみたり、人にしてみたり、機械にしてみたり、しかしその形は無形であるという。その無形のものを考えつくすなど到底人間にも無理があるのではないでしょうか。
  そうした事は、、考えている(現在進行形)、さらに『考えつくす』のではなく、『考えた、考えた事がある』(過去形)にする事が望ましい姿であると思います。人の脳は一度考えた事はかき消す事はできないけれど、新しい考えは、 たす事ができるので、それを使って経験値を上げて『怖い』を克服しているのではないかというお話です。

 このコンテンツのまとめ。

 病気になると、その病気の深刻さや回復の時間に応じて、人はショックを受けます。そのショックは人様々であるけれど、そのショックをどう克服して行くのかを、みなさんは日頃から模索しているのではないでしょうか。病気が治ればこの気持ちも無くなるけども、そうでない場合はそれなりにまた考えてしまうものです。私はそれを人として当然と考えます。しかし、自分独りで考えただけでは、その考える容量が少なすぎて余計に考えがつまってしまうものだという事です。そのため、たくさんの人と話合いながら自分の考える容量を増やす事が必要だと私は考えて、今回みなさんにお話を聞いていただきました。インターネットでは、文章で会話をしますが、それもまた1つの方法ですが、私は実際に人と接して是非ともその温もりを手に入れて欲しいと願っています。そのあたたかい温もりこそが、『怖い』を克服して行く為のもう1つの薬であると私は信じています。様々な人の温もりが、きっと皆さんをサポートしてくれると信じています。もう、その手はとっくに差し伸べられているのですから、みなさんからもそっ〜とでいいから手を出してみましょう。

 それと、外に出る。お庭に出る事でも良いと書いた答えを1つ。
外に出て眼を閉じてみてください。眼を閉じると人は自然に耳を澄まして周りの音を聞こうとします。眼を開いていても、同じ音が耳の中に入って来ていたのに、今まで総ての音を感じてはいない自分に気がつきます。考える事に夢中になると、周りの事が見えなくなるのは当然ですから、ここは一服といって考えてる自分を休ませる事が、計算機の容量を増やす事につながるのです。大きく深呼吸したら、すぐに実行です。


 つまらない独り言に最後までお付合いいただき、ありがとうございました。
   鬼軍曹 こんた



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 顔面神経麻痺に関係する執筆内容のページです。是非読んでみて下さい。
 こんた治療院 <治療の窓>より抜粋しました。
 毎日、診察の合間にコツコツと執筆しながら早23年が経ちました。皆さんに1つでもお役にたてる事がありましたら、幸いと思いながら、今も尚治療の合間に書き続けている内容です。全国の方から色々な御質問などいただき、毎日心を込めて返信しています。そうしたみなさんの力で、今日まで一生懸命やっていて良かったと思うのは、インターネットのすばらしさの1つだと考えています。

 シリーズ
 顔面神経麻痺を考える

6.1 後遺症各論
<病的共同運動の強調>

7 小児の顔面神経麻痺
:ケア編

8 顔面体操と
顔面の運動は、
やってはいけない

10 顔の痛み 三叉神経痛

21 随意運動と不随意運動

23 やっつけに行く
今回は、
鬼軍曹の
独り言ですか?


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